アーノルド事件(Arnold Sighting)。1947年6月24日、アメリカの実業家ケネス・アーノルドが自家用機で飛行中、9個の謎の飛行物体を目撃した事件。この事件を契機に「空飛ぶ円盤」という言葉が生まれた。
この日、アメリカのアイダホ州で防火機器の会社を経営する実業家ケネス・アーノルドは、仕事でアメリカ北西部ワシントン州のチヘーリスを訪れた。自らコールエアー社A2型機を操縦し、次の目的地であるヤキマに向けて飛び立ったのは、午後2時頃であった。
途中カスケード山脈に差しかかったとき、アーノルドは前年の12月10日に消息を絶ったアメリカ海兵隊のC46輸送機の捜索を試みた。アーノルドは付近を少しばかり飛び回ってみたものの、墜落機の残骸は発見できなかった。そこで午後3時より少し前に、ワシントン州ミネラル上空で、あらためてヤキマ方面に進路を変更した。ところが、それからわすか2,3分ばかり飛んだとき、アーノルドは、太陽が鏡に反射したような閃光を感じた。
最初は、他の航空機が近くにおり、太陽の光がその機体からの反射したのではないかと考えた。そこで周囲を見回したところ、左後方約15マイルほどの位置にDC4輸送機の姿が確認できた。しかし、閃光の方向を考えると、この輸送機が原因とは思えなかった。そして最初の閃光から約30秒後、左方向から一連の閃光が見えた。
冷静なアーノルドは、自家用機の風防や眼鏡に太陽光が反射している可能性を考えてみた。そこで機首を左右に振ってみたり、眼鏡をはずしたり、左側のガラスを開けたりしてみた。その結果判明したのは、レーニア山付近を北から南、正確に言うと170度の方位角で飛んでいる何かが太陽の光を反射しているのだということだった。その物体の数は9個で斜めの梯隊を組んでおり、高度は約9500フィートであった。謎の飛行物体は猛スピードでレイニア山に接近し、一時的に峰の向こう側に隠れたことから、自分の飛行機の位置から23マイルほど離れたところにいると推定された。左後方にいるDC4輸送機は大きさが分かっており、そこまでの距離はほぼ正確に割り出すことができたので、アーノルドは自家用機と両者の距離を比較し、物体の大きさも割り出した。それはDC4より少し小さい、約50フィートとの長さと見積もられた。幅はそれよりやや狭く、厚さはわずか3フィートほどと薄く、横から見たときは一本の黒い線のようで、時折見えなくなるほどだった。ジェット機にしては尾翼が見えず、時折急に動く際には明るい閃光を発した。
アーノルドはしばらく飛行物体の観測を続け、飛行速度も割り出した。
梯隊の最初の一機がレーニア山の南端を通過したとき、アーノルドの時計の針は2時59分を指していた。物体の作る列の長さは、少なくとも5マイルと計測され9つの物体の最後の一個が少し離れたアダムズ山頂を通過したときには、102秒が過ぎていた。
アーノルドは午後4時頃ヤキマに到着した。そこで、友人で空港のゼネラル・マネージャーでもあるアル・バクスターに自分の奇妙な体験を物語ったところ、すぐに空港の全職員がこの話を知るところとなった。アーノルドはすぐに、オレゴン州ペンドルトンでの航空ショーに向かい、そこで地図を調べ、レーニア山とアダムズ山の距離が47マイルあることを確かめた。つまりアーノルドの計測が正しければ、物体は編隊の長さも含めた52マイルを1分42秒で通り過ぎたことになる。これを時速に直すと1,835マイル、つまり時速2,900キロ以上の超音速になる。さすがにおかしいと思ったのか、アーノルドは控えめに時速1,700マイル以上という数字を発表したが、いずれにせよ当時実用化されていた航空機で、この速度を出せる機種は世界のどこにもなかった。
翌日の6月25日、アーノルドは地元紙『ペンドルトン・イースト・オレゴニアン』の事務所で記者会見を開き、自分が目撃した何かについて説明した。こうして6月26日以降、世界各地の新聞に「フライング・ディスク」とか「フライング・ソーサー」という言葉が大きく掲載されることになった。
だが「フライング・ソーサー」、つまり「空飛ぶ円盤」という言葉は、アーノルドが自分の目撃した物体の形を形容して述べたものではない。アーノルドは物体の飛び方に対し「それは、コーヒー皿が水面で飛び跳ねるような」いわゆる水切りをしたような奇妙な飛び方をしていたと述べたようで、「フライング・ソーサー」という言葉は新聞記者の造語とされる。
物体の飛び方についてアーノルドはまた、中国の凧の尾のような動きとか、太陽の中で翻る魚のよう、と表現したこともある。要は波を描くように飛び跳ねる飛び方ということだろう。
物体の形状に関してアーノルドは、尾翼や尾部のない平たい形で翼があり、尾部が尖っていたとする一方、9機のうち1機はほとんど三日月型で中央にドームがあったと述べている。
距離や大きさに関するアーノルドの計測については、現在も議論が続いている。
UFO研究の父とも言われるアメリカの天文学者ジョゼフ・アレン・ハイネックは、物体が時速1,700マイルで飛行していたというアーノルドの計測は、それが20~25マイル離れていたという推定に基づくが、その距離からでは長さ50フィート程度の物体を肉眼で捕らえることはできないのではないかと指摘している。
7月6日の新聞には、アメリカ軍が開発中であったフライング・ウイングか、あるいはフライング・フラップジャックと呼ばれる円盤形航空機だったのではないかとの推測記事が載った。
フライング・ウイングとは、いわゆる全翼機を指す言葉であるが、フライング・フラップジャックはアメリカ海軍の依頼でヴォート社が試作したXF5Uという機種である。円盤状の形状からフライング・パンケーキと呼ばれることもある。
XF5Uの開発は第二次世界大戦中から進められていたが、試作機が完成したのは終戦後の1945年8月のことであり、しかも試作機は一度も試験飛行を行わないまま、計画は1947年3月に中止されている。
もちろん軍はこのような説を否定した。
アメリカ空軍の公式見解は、アーノルドは蜃気楼を見たというものだった。
しかしアーノルドによれば、物体ははっきりした輪郭を保って見えたというから、何十マイルも先にある峰が蜃気楼で見えたという説明できない。隕石を誤認したのではないかとの記事も現れたが、光学物理学者のブルース・マカビーは、隕石説は物体の形状を考えると援護できないとする。
UFOの存在それ自体に否定的な態度をとるハーバード大学の天文学者ドナルド・メンゼルは1953年に、アーノルドは山から吹き上げられた雪煙を見たのだとしたが、ブルース・マカビーは、そのような雪煙はぼんやりとかすんだような光となり、アーノルドが述べた明るい反射光を発するものではないと反論した。するとメンゼルは1963年、アーノルドは特殊な形の雲を見たのだと主張したが、これは、当日快晴だったというアーノルド他の主張に反する。さらにメンゼルは1971年になって、アーノルドは窓ガラスの水滴を見誤ったのだとしたが、これは、窓を開けて確かめたというアーノルドの証言に反する。
パイロットの中には、誘導ミサイルだったのではないかと述べる者や、開発中のジェット機やロケット推進機ではないかと述べる者もいたが、いずれにしても、アーノルドの詳細な描写に正確にあてはまるものはない。
1機はほとんど三日月型で後部が尖っていたという証言が正しければ、形状自体は第二次世界大戦中ドイツが開発していたホルテンHo229によく似ている。
Ho229は、ドイツのホルテン兄弟が開発したジェット推進の全翼機で、1944年に試験飛行に成功、ドイツ空軍によってHo229の正式名称を与えられ量産化される予定であったが、本格製産前に終戦を迎えた。
戦後アメリカ軍は、この機種を少なくとも1機鹵獲しているが、国内で試験飛行が行われたかどうかは明らかではない。少なくともアメリカ政府は公表していない。
要は現在に至るも、アーノルドが目撃した物体が本当はなんだったのか、明確な結論は出ていないのだ。
ともあれ、これが国際的に認知された世界最初のUFO事件となった。事件が起きた6月24日は、今でも国際UFO記念日として記憶されている。
【参考】
カーティス・ピーブルズ『人類はなぜUFOと遭遇するのか』ダイヤモンド社
桜井慎太郎『図解UFO』新紀元社