デルフィの神託(the Oracle of Delphy)。古代ギリシャ世界において最も人気を集めた神託。日本では「デルフォイ」、「デルポイ」と表記されることもある。
古代ギリシャではアポロンやゼウスなど有名な神々に捧げられた神殿の巫女がトランス状態となって託宣を述べる形式の神託が各地で行われており、デルフィはアポロンの聖地であった。古代ギリシャ世界では、神託で有名な場所として他にドドナやアンピアラオスなどがあったが、デルフィはそれらの中でもっとも権威ある神託所となっていた。
デルフィは現在の中部ギリシャにあり、古代ギリシャ人はこの場所を、世界のへそにあたると考えていた。デルフィには紀元前2000年紀の古代から地母神の聖所があったが、神話によれば、自分の神託の地を求めていたギリシャ神話の太陽神で予言の神でもあるアポロンが、この場所を守っていた大蛇ピュートンを退治して自分の神託所を建てたとされる。デルフィの神託はすでに神話時代から有名で、オイディプスの神話などいくつかの神話に登場する。
デルフィの巫女たちはピティア(Pythia)と呼ばれ、神託を求めるにはまず神域にあるカスタリアの泉で身を清め、神殿の前の祭壇に菓子といけにえの家畜を捧げる。その後質問の条項を記した紙片を神官に渡し、巫女が三脚の上で座っている神殿の下の穴に入る。三脚の下には裂け目があり、巫女は洞窟の中の霊気を吸ってトランス状態で神託を下すとされるが、多くの場合判断の難しい言葉が示され、神官によって「解釈」される必要があった。
古代ギリシャの著述家も多くその神託について書き残しているが、それらの中でヘロドトスの『歴史』(岩波新書)からいくつかの例を紹介すると次の通り。
1.リディアの王家ギュゲス家に関する神託
ギュゲスがリディアの王位を奪ったとき、神託はその王位を認めたが、5代目に至り、ギュゲスに王位を奪われたヘラクレスの子の報復が下ると予言した。はたして5代目にあたるクロイソスはアケメネス朝ペルシャに破れ、リディアは滅んだ。
2.クロイソスの行動に関する神託
上述のリディア王クロイソスは、アケメネス朝ペルシャとの戦争を占うに先立ち、ある特定の日に自分が何をしているかを、デルフィだけでなくアンピアラオスやドドナなど各地の神託所に占わせた。その日クロイソスは亀と子羊を青銅の大釜で煮ていたが、これを的中させたのはデルフィとアンピアラオスの神託のみだった。
3.クロイソスのペルシャ出兵
上述の神託を受け、クロイソスは、あらためてアケメネス朝ペルシャへの出兵についてデルフィとアンピアラオスの神託を乞うた。いずれの神託も「ペルシャに出兵すれば偉大なる帝国が滅びる」と出た。クロイソスはこれをアケメネス朝ペルシャが滅びるものと解釈し、出兵したが、滅んだのはリディアであった。
5.ペルシャ戦争時の神託
アケメネス朝ペルシャの侵攻に先立ち、アテネはデルフィの神託を求めたが、神託は芳しくなかった。そこでデルフィの名士の1人ディモンが再度神託を求めると巫女は、「ケクロプスの丘と聖なるキタイロンの谷の狭間に抱かれる土地ことごとく敵の手に陥るとき、遥かにみはるかし給うゼウスは木の砦を唯一不落の塁となり、汝と汝の子らを救うべく賜るであろう。」と述べた。「木の砦」とは、ギリシャの都市国家(ポリス)の中心部に必ず設けられているアクロポリスのことであると解釈する者もいたが、当時のアテネ指導者テミストクレスはこれを船のことと解釈して海戦の準備をし、サラミスの海戦で勝利した。
なお、ソクラテスについても、デルフィの神託で「ソクラテス以上の知者はいない」との神託を得たと伝えられている。
このように古代ギリシャ人は、個人の日常生活の指針から、国家の大事に至るまでありとあらゆる事象についてデルフィの神託を求めたようである。ローマ時代になってもデルフィは信仰を集めたが、ミトリダテス戦争やスッラ戦争、さらには蛮族の襲撃や紀元前83年の地震などで次第に荒廃し、やがて廃墟となった。
デルフィの遺跡は現在世界遺産に登録されている。
欧米の超心理学関係の書物では、古代における予知の事例としてしばしばデルフィの神託の例が持ち出される。上記の例からもわかるとおり、神託の内容は明確に予知と言えるかどうかには疑問のあるものが多い。2.の事例については、この記述が正確なものであるとすれば、何らかの超感覚的知覚によるものと言ってよいが、予知ではなく千里眼としても説明可能であろう。
デルフィの神託について、地面の裂け目から生じる窒息性のガスを吸って巫女が述べたうわごとを予言として解釈したというもっともらしい説がスケプティック側の記述(たとえばゲリー・ジェニングス『エピソード魔法の歴史』現代教養文庫)も見られるが、デルフィの地下からこの種のガスが発生することは確認されていない。またトランス状態を導くためにはこの種の小道具は必ずしも必要ない。
トランス状態で神意をとりついだり死者を呼び出したりするという形式は、いわゆるシャーマンやメディスンマンなど古代から現代に至るまで世界各地で見られるものであり、『旧約聖書』でも「サムエル記上」第28章に降霊術を行う女の話が登場する。日本でも八丈島のノロ、沖縄のユタ、恐山のイタコなど多くの例がある。ただしデルフィの巫女の場合は託宣を専門としている。