カール・エルンスト・クラフト

カール・エルンスト・クラフト(Karl Ernst Krafft)、1900~1945。スイス生まれの西洋占星術師。ナチス・ドイツのプロパガンダに協力したことで知られる。

スイスのバーゼルで、醸造業を営む実業家カール・クラフトの長男に生まれる。父方の祖父はドイツのヴィーゼンタールからバーゼルに移住したホテル経営者で、叔父のアルベルト・クラフトは化学者であった。父は息子が家業を継ぐことを望んだが、カール・エルンスト・クラフトはその反対を押し切ってバーゼル大学科学部に入学する。しかし1919年、妹アンネリーゼが死亡すると、1917年の夢でその死を予知していたと主張、心霊主義やオカルトに傾倒するようになる。この頃西洋占星術にも触れるが、それほど関心を持たなかったようである。20歳で一旦兵役となり医療部隊に配属されるが、健康上の理由ですぐに除隊する。この時機にはテレパシーにも関心を持ち、友人と実験を行っている。大学に戻るとヨーガも実践したが、法律や経済を学ぶよう求める父親と対立して家出し、1920年11月にはジュネーヴ大学に移る。
 西洋占星術を本格的に研究するようになったのはこの頃からで、1921年から1923年にかけては何万人もの出生時間を調査し、その結果を1923年のパンフレットに発表した。自らは、惑星の位置が人間の才能や体質に及ぼす影響についてのこうした研究を「コスモビオロギー(宇宙生物学)」と名づけた。大学は結局卒業せず、1924年12月以降ジュネーヴ学生連合や神智学関係の書店で働いた後、1926年3月には、父の友人オスカー・グールの娘婿が経営するデパートやチューリヒの銀行などで筆跡学や占星術を用いた性格分析、職員の採用やカウンセリング、経営の判断や占星術による経済予測などを行う。またジュネーヴの教育家アドルフ・フェリエールとも関係をもち、その財政顧問となったこともある。1934年以降は心理学アドバイザー、心理療法士として講演などをこなしつつ、「タイポコスミー」という独自の占星術や宇宙経済学、ノストラダムスなどの研究を続け、各種関係誌にも寄稿した。1937年春には、ルーマニアの外交官フィオレル・ティレアと出会っている。
 1937年にはドイツの超心理学者ハンス・ベンダー(1907~1991)のホロスコープ研究に協力するようになり、ベンダーの支援で同じ年の10月に南ドイツのウルベルクに移住した。
 1938年、前年クラフトに自分の過去を正確に指摘されたティレルが再度クラフトを訪ね、ルーマニアの要人2名の運勢を匿名でクラフトに占わせた。最初の人物はルーマニアのファシスト指導者コルネリウ・コドレアヌで、クラフトは1938年11月以後までは生きないとした。2番目の人物は実は当時のルーマニア国王カロル1世であったが、クラフトは1940年に破壊的な逆転が生じるとした。そしてコドレアヌは1938年11月30日に射殺され、カロル1世は1940年9月の軍事クーデターで退位させられた。
 1939年11月2日、クラフトは情報局に勤める知人に対し、11月7日から10日の間、ヒトラーの生命が危険となると知らせたところ、11月8日には実際に暗殺未遂事件が起きた。またこの頃、ナチス・ドイツ宣伝大臣ゲッベルス夫人であるマグダ・ゲッベルスが、1939年のポーランド侵攻をノストラダムスが予言していたような記述をハンス=ヘルマン・クリツィンガーの『太陽と霊の神秘』の中に見つけたことから、ゲッベルスはノストラダムスをプロパガンダに使用することを思いついた。ゲッベルスがクリツィンガーからクラフトを紹介されたことから、クラフトは宣伝省のプロパガンダに協力するようになる。しかし、西洋占星術やノストラダムス解釈に関する自説には固執したという。
 1941年5月10日、ルドルフ・ヘスがイギリスに亡命すると、ナチス・ドイツはあらゆる種類のオカルティズムに対する弾圧を強め、クラフトも6月12日にゲシュタポに逮捕される。このときは、同じく逮捕された西洋占星術師のゲルナーとともに、連合軍側要人のホロスコープ解読に携わることを条件に釈放された。しかし自分の解釈にこだわるクラフトはしばしばこの宣伝省と衝突し8月には西洋占星術以外の職務を命じられる。さらに出身国スイスの大使館に助けを求めようとしたことで1943年2月12日レーテルシュトラッセ刑務所の雑居房に収監される。3月にチフスに罹ったが回復し、その直後にオラニエンブルクの収容所に移される。ここでは体調を崩して収容所内の病院に収容され、ブッヘンヴァルトの収容所に移られることになったが、1945年1月20日移送途中に死亡。

【評価】
 西洋占星術関係の書物ではクラフトは天才的な占星術師として紹介され、ナチスとオカルティズムとの関連を示す事例として、ヒトラーもクラフトの判断に基づいて戦略を立てたとの記述も見られる。しかしこうした記述は、あまりにも過大評価に過ぎるであろう。
 クラフトは1923年のパンフレットで2年間の研究の成果を発表し、同じ家族のホロスコープには同様の傾向があり、2800人の音楽家を調べた結果出生図と音楽の才能には関連があり、生まれたときの星の位置が個人の体質を決めるなどと述べている。しかしこうした研究は、後の統計学的な研究で否定されている。アドルフ・フェリエールの財政顧問ともなった際には、西洋占星術に基づいた投資を行って見事に失敗している。1939年8月26日のフェリエールへの葉書では大規模な戦争はないと書いているし、1940年1月には彫刻家ブレカーに対し、戦争は1942年から1943年にかけての冬を越えないとも述べている、ドイツが戦争に勝利するとも信じていたようだ。
 もちろん、ヒトラー暗殺未遂事件の予告や、ロンメルよりもモンゴメリーの方が強運であるなど、結果的に的中した予言もあり、ルーマニアの外交官ヴィオレル・ティレアは、彼の占星術的判断にかなり感銘を受けたようである。ただし、これをもって西洋占星術による未来予知が可能であるとの結論は導くことはできない。また、占いを離れたクラフト自身の情勢認識力、判断力にも、かなり疑問がある。
 このことは、1941年6月、クラフトと同時に逮捕され、その後ともに宣伝省に協力した西洋占星術師のゲルナーが、最終的に1943年に釈放されたのに対し、クラフトは自分の解釈に固執して必ずしも宣伝省の意向に従わず、結果的に悲劇的な死を迎えたことでも明らかである。
 クラフトが主体となったプロパガンダがどれほど効果があったかも疑問であり、1940年10月クラフトの注釈を付けた『ミシェル・ノストラダムスの予言』は299部コピー印刷されたのみである。1941年2月には、『ノストラダムスはどのようにヨーロッパの未来を予言したか』と題するフランス語の書物が出版されたが、クラフトは必要以上にドイツ寄りの解釈を求められたため自分の名を出させなかったという。
 そのクラフトが、まるでヒトラーの軍師ででもあるかのように誇大視されたのは、クラフトの占星術的判断に個人的に感銘を受けたヴィオレル・ティレアと、クラフトのライバルであるルイ・ド・ウォールによる宣伝が大きい。
 1940年、ルーマニアで国王カロル1世が退位を迫られたとき、ティレルはロンドンに駐在しており、新政府からの帰還命令を無視してルーマニア王国亡命政府の外交官となってそのままイギリスに残った。そして彼の個人的信念をもとに、イギリス政府にクラフトの予言を知らせたようである。そのティレアがイギリス政府に紹介したのがド・ウォールであった。ド・ウォールは西洋占星術に基づいた助言を行うことでイギリス政府から報酬を得ており、当然自分の仮想敵たるクラフトを必要以上に誇大宣伝した。このことはひいては、ド・ウォール自身の価値を高めることでもあった。このド・ウォールが戦後、クラフトとの占星術戦争を多くの雑誌に書き散らしたことが、上に述べたクラフトのイメージを決定したようである。 

【参考】
Ellic Howe『Astrology & the Third Reich』the Aquarian Press

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