693(持統天皇9)~775(宝亀6)。奈良時代の公卿・学者。備中国下道郡也多郷土師谷天原(現在の岡山県倉敷市吉備町)に生まれる。霊亀3年留学生として入唐、734(天平6)年帰国し、唐で施行されていた太衍暦や方位を計る測影鉄尺など陰陽寮関係の器具、儒学、音楽、武具などの文物を伝えた。橘諸兄に見出されて玄肪とともに活躍したが藤原仲麻呂の進出により天平勝宝4年に筑前守に左遷。翌年遣唐副使となり754年帰国して太宰大弐となり、756年には造東大寺長官。764年の仲麻呂の乱で大功をたて2年後には右大臣となった。
『扶桑略記』には「凡そ伝学するところ、三史五経、名刑算術、陰陽暦道、天文漏刻、漢音書道、秘術雑占、一十三道。それ受けるところの業は衆芸に渉り極む」という才人であり、唐は帰国を許さなかったが、真備は秘術をもって日月を封ずるなどの怪異を起こし、占いでこれが真備の行為とわかって帰国を許されたとする伝説も伝わる。陰陽道にも造詣が深く安倍晴明にも間接的に影響を与えた。『私教類聚』という教訓書を残すが、これには、五行説や暦注の吉凶説、方角神の所在などの大要は知っておくべきであるが、それを専業とすべきでないとし、北斉の顔之推の『顔氏家訓』を引用して「世に伝えて云う。陰陽を解する者は鬼の嫉むところ」であり、安泰な暮らしは送れず災いにあうとある。『今昔物語集』には、聖武天皇の姿の霊鬼から身を守ったり、藤原広嗣の悪霊を説得した逸話がある。
参考
