ヴァンガ

ヴァンガ・ディミトローヴァ(Вангелия Пандева Димитрова、Vangelia Dimitrova)、1911~1996。ブルガリアの予言者、薬草医。本名ヴァンジェリア・パンデヴァ・ディミトローヴァ。結婚後はヴァンジェリア・グシュテロヴァ (Вангелия Гущерова) 。「ババ・ヴァンガ(ヴァンガおばさん)」の愛称で知られる。「バルカンのノストラダムス」と呼ばれることもある。
 1911年、当時オスマン帝国領であったマケドニアのストルミツァに生まれる。
 子供の頃は頭が良く、金髪で青い目の普通の少女であったと言われるが、その頃から友達と薬草ごっこに興じていたとも言う。母親は早くに亡くしたが、その後父親は再婚した。
 12歳の時つむじ風に巻き込まれて飛ばされ、その際砂や埃が入って目に傷害を受けた。その後2度手術を受けたが視力は回復せず、19歳で完全に失明した。
 ヴァンガが予知能力を発揮し始めたのは視力を失った頃からとされ、最初に父親に死を予言したという。同時に、薬草を用いた病気の治療も始めている。
 1925年からゼムンの盲学校に入学するが、1928年に継母が死亡したため、幼い弟や妹の面倒を見るため家に帰ったさらに1929年には、地震で家が倒壊するという不幸にも見舞われ、1939年には肋膜炎を発症し、一時は医者にも見放されたが、奇跡的に回復した。
 第二次世界大戦が始まると、知り合いの消息を訊ねる人々が大勢ヴァンガを訪れるようになり、その名声は高まった。
 1941年になるとヴァンガは、他の国から制服の男が来ると予言。予言通りにやってきたのが、将来夫となるディミタール・グシュテロフであった。グシュテロフは、自分の兄弟を殺した犯人を知りたがったが、ヴァンガは彼に復讐を思いとどまらせた上で、犯人たちその消息を告げたという。翌年、グシュテロフと結婚したヴァンガは、夫と一緒にブルガリアのペトリッチに移り住んだ。しかし、夫ディミタールはブルガリア軍に召集され、ブルガリアに併合された北ギリシャで何年か過ごした後、帰国後アルコール依存症になり、1962年に死亡した。夫の死後ヴァンガはペトリチから十数キロ離れたルピテに移住し、以後の生涯を喪服で過ごし、旧姓のヴァンガ・ディミトローヴァで言及されることが多くなった。
 ヴァンガの予知能力は生前からブルガリア政府も注目しており、国内だけでなく海外からも多くの要人がその忠告を求めてやってきた。1942年4月に、当時のブルガリア国王ボリス3世が彼女に会見したほか、旧ソ連のブレジネフやゴルバチョフも彼女に会ったことがあるという。
 第二次世界大戦後、ブルガリアでは共産主義政権が成立、国名もブルガリア人民共和国となったが、ヴァンガの活動は共産主義政権下でも容認された。1967年には、ルピテやペトリチを管轄するペトリチ基礎自治体議会が、彼女との会見を調整する委員会を設立し、彼女と会って話すためにはこの委員会を通さなければならなくなった。会見の際、共産圏の国民からは10レフ(1.1米ドルくらい)、西側諸国民からは50米ドルの料金が徴収された。ヴァンガには、公務員として月200レフの給料が支給された。
 1966年から、ヴァンガはブルガリア政府の職員となり、ヴァンガとの面会は国家の委員会を通じて申し込み、相談者の謝礼は国庫に入るようになった。ブルガリア政府は彼女のリーディングを記録しており、ブルガリアの超心理学者ゲオルギー・ロザノフによれば、彼女の予言の的中率は80%という。
  ヴァンガは、1996年8月、乳がんのため死亡したが、彼女は自分の死の日を、夢に見て性格に予言したという。その少し前には、フランスにいる10歳の少女が彼女の才能を引き継ぐとも述べている。
 ヴァンガの葬儀には重要人物を含む大勢の参列者が集まり、ペトリッチにある彼女の家は、遺言により博物館となっている。

【評価】
 ジーン・ディクソン同様、ヴァンガについてもさまざまな伝説がまつわり、真相を探ることは容易ではない。
 まずは彼女が予言を始めた時期がはっきりしない。子供の頃夜釣りに行く人物が事故に遭うことを予言したという逸話も残るが、いずれにせよ彼女の能力が広く知られるようになったのは、第二次世界大戦中、人々が肉親や最愛の人の消息を知ろうと彼女の許を訪れたときかららしい。
 ヴァンガが盲目になった経緯も、一般にはつむじ風で飛ばされて目に砂や埃が入ったためとされるが、かなり痩せていたとはいえ12歳の子供を吹き飛ばすようなつむじ風が、このとき実際に起きたという記録はないようで、『ソ連圏の四次元科学(下)』によれば、視力の衰える発作に何度か見舞われたとなっている。
 さらに問題となるのが、ヴァンガとブルガリア政府機関、特に秘密警察との関係である。
 ヴァンガが共産主義政権下のブルガリアで確固たる地位を占めた要因のひとつに、トドル・ジフコス首相親娘の支持がある。ジフコフは、第二次世界大戦中ナチスに対するレジスタンスに加わっており、ヴァンガと初めて対面した際敵に包囲されて自殺しようとしたことを言い当てられた。ヴァンガの公的管理については、ヴァンガとの対面を求める人物はまず委員会にその旨申し出る必要があり、実際に面会できるまで数日待たされることが通例であったようだ。つまりこの間、ブルガリアの官憲が対象者の情報を得、それをヴァンガに伝えていた可能性も否定できないのである。実際、ヴァンガが政府の意向を受けたと思われる予言を行った事例もあるようである。
 ただヴァンガ本人は自分の予知能力について、何らかの目に見えない存在が人々の情報を得る上で手助けしてくれると述べている。彼女自身はこの存在をうまく言い表すことができず、異星人とも呼んでいる。ヴァンガは、彼らは地球から数えて3番目にあたるVamfimと呼ぶ惑星から来たとしており、彼らは大勢地球に住んでいるとも言う。地球から数えて3番目の惑星から来たということが正しいとすれば、彼らは土星から来たことになる。
 彼女の予言のうち的中したとされるものには、ソ連の分裂、チェルノブイリ事件、スターリンの死亡日、潜水艦クルスクの沈没、911事件、第二次世界大戦、チェコスロバキアの共産化、1985年のブルガリアの地震、1995年のエリツィン・ロシア大統領の再選、プーチンの登場など多くのものがあるが、ヴァンガの予言を検証するにあたって問題となるのが、ヴァンガ自身は、自らの予言を書き残しておらず、世間に知られている予言の中には、ヴァンガが行ったものかどうか明らかでないものが多数あるということだ。ブルガリア政府は、ヴァンガの発言を記録しているというが、内容は現在まで公表されていない。
 このような状態では、「ヴァンガの予言」とされるものについては、単にエピソード的に紹介する以上のことはできず、個々の事例を検証することにそれほど意味があるとは思われない。また、ヴァンガは予言者として知られているが、実際に彼女が得意としていたのは行方不明者の現状を把握することであった。
 ともあれ、1990年にブルガリアが共産党の一党独裁を廃し、ブルガリア共和国として生まれ変わった後も、政府や国民のヴァンガに対する態度は変わらず、1996年にヴァンガが乳がんで死亡したときには、ブルガリアの名士たちが大勢葬儀に出席した。 つまりヴァンガは、ブルガリアの政治体制が王制から共産主義政権、民主主義政権と変遷するなか、一貫して政府や民衆の支持を集めた予言者であり続けたのである。

【参考】

S.オストランダー、L.スクロウター『ソ連圏の四次元科学(下)』たま出版

Fortean Timese』第140号

Fate』第726号

英語ウィキペディア該当ページ

ロシア語ウィキペディア該当ページ

ブルガリア語ウィキペディア該当ページ

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