ジーン・ディクソン

ジーン・ディクソン(Jeane Dixon)、

1904~1997。アメリカの予言者。また、世界各地の日刊紙に西洋占星術による運勢判断を掲載した西洋占星術師としても知られる。
 ウィスコンシン州メドフォードにドイツ人移民ゲルハルト・ピンカートとエンマ・ピンカートの子として生まれる。生年について、ディクソン自身は1918年の生まれを自称していたが、ダニエル・セントアルビン・グリーンがジーンの兄弟に確認したところ、実際には1904年生まれで、本名はリディア・ピンカートであった[1]。同じく彼女自身が述べるところでは、一家は彼女が8歳の頃カリフォルニア州サンタロサに移住し、ジーンは両親やヨーロッパの家庭教師から教育を受け、さらにアメリカ・インディアンに乗馬[2]、イエズス会士ヘンリー神父から占星術を学んだとする[3]。幼少時から親戚の死を予言したとも述べ[4]8歳の頃ロマの占い師を訪れた際、掌にダビデの星と半月があるとして予知能力を指摘され、水晶球を与えられた[5]。そこで他の子供たちがおもちゃで遊んでいるとき、ジーンは上流階級に水晶球凝視で忠告していたという[6]。 しかしこの水晶球は後にワシントンの自宅で盗まれ、顧客の婦人から新しい水晶球をプレゼントされたという[7]
 実際にはピンカート一家は、1910年にミズーリ州に移り、リディアはカルタージュ郊外の農民共済組合の学校で学んだ。1919年、一家はカリフォルニア州サン・ベルナルディーノに移り、ガソリン・スタンドや食料雑貨店を経営、リディアは1921年にサンフランシスコのバンク・オブ・イタリーで働いていたという。1928年には、スイス人移民チャールズ・ズアーチャーと結婚したことを証する文書が残っており、これによれば新婦の名は「ジーン・ピンカート」となっている[8]ズアーチャーとはその後離婚し、同じく離婚歴のあった実業家ジェイムズ・ディクソンと結婚した[9]
 1942年、夫とともにワシントンに移り、兵士を慰問する「家庭歓待委員会」の一員として、委員長マーチン・ヴォーゲル夫人主催の親善パーティーで兵士のために占いを始めた。するとこれが次第に評判となり、多くの名士も彼女を訪れるようになった[10]1944年と1945年にはルーズベルト大統領とも会見した[11]
 戦後は、夫が経営する不動産会社の秘書兼経理部長となって事実上この会社を運営する一方、相談を求めてくる大勢の顧客に助言を与え、ニクソン大統領やレーガン大統領も彼女の助言を求めたという。
 彼女が一躍世界的に有名になったのは、1963年11月22日のケネディ大統領暗殺を数年前から予言していたとされたことで、事件後の1966年、ルース・モンゴメリーが著した『A Gift of Prophecy』(邦訳 『水晶の中の未来 – ケネディ暗殺を予言した女』)は300万部のベストセラーとなった。
 その他にも、ルーズベルト大統領の死やハマーショルド国連事務総長の事故死、ソ連の人工衛星スプートニクの打ち上げやマレンコフ・ソ連首相の交代など多くの予言が的中したと言われるが[12]実際には外れた予言の方がはるかに多い。
 ディクソンは1964年に、子供たちの福祉のための「児童援助基金」という慈善団体を作り、彼女が予言に関連する事業で得た収入はすべてこの財団に寄付されている。しかしその運営には疑問も持たれている[13]。またディクソン夫妻は元FBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーと知己であり、ディクソンがFBIの意向を受けて予言を行っていたとの報道もある[14]
 1997年1月25日、心不全により死亡。彼女の遺品の多くは、ワシントンD.C.の銀行家・投資家のレオ・M・バーンスタインの手に渡り、バーンスタインは2002年、ヴァージニア州ストラーズバーグに「ジーン・ディクソン博物館・図書館」を開館したが、2008年にバーンスタインが亡くなると、遺品は2009年7月に競売にかけられた[15]

ジーン・ディクソンは、ケネディ暗殺をはじめ、数々の重大事件を予言した卓越した予言者として、日本ではノストラダムスやエドガー・ケイシーとともに「世界三大予言者」と呼ばれることがある[16]
 しかし、ケネディ暗殺はじめ、的中したとされる予言はかなり精度に欠けるものが多く[17]、外れた予言の方が多い。天文学者のロジャー・B・カルヴァーとフィリップ・A・イアンナは、彼女の予言の的中立を10.4%としているが[18]、『アポカリプス666』巻末(p250以降)や『悪魔の黙示666』冒頭の未来予言はほとんどすべて外れている[19]こうした事実のみから判断すると、到底信頼に足る予言者とは言えない。それどころか、彼女に何らかの予知能力があったと推測するにも難がある。
 結局は本名も年齢も偽り、有閑マダムの余技として始めた占いが時流に乗って有名になったというところではないだろうか。このような人物が世界的な予言者として有名になった原因の一つとしては、外れた予言が忘れられ、少数の的中したように見える予言が宣伝されるということがある。テンプル大学の数学者ジョン・アレン・パウロスは、こうした現象を「ジーン・ディクソン効果」と呼んだ。FBIへの協力が彼女の名声獲得にどれほど寄与したかは判断不能。

【脚注】

[1]chneck(2008)
[2]ンゴメリイ(1966)p.23
[3]ィクソン(1969)p.19
[4]ンゴメリイ(1966)p.25
[5]ィクソン(1969)p.62
[6]chneck(2008)
[7]ィクソン(1969)p.76-78
[8]chneck(2008)
[9]chneck(2008)は、結婚の年は1939年としている。
[10]ィクソン(1969)p.25、モンゴメリイ(1966)p.43
[11]chneck(2008)によれば、公式の記録では確認できないが、大統領の長男エリオット・ルーズベルトは父がディクソンに会ったと証言しているという。
[12]沼(1974)等
[13]chneck(2008)
[14]1999年12月27日付APBニュース等
[15]2009年7月16日付「ワシントンポスト」紙ネット版
[16]えば高橋良典(1982)p115。ただしディクソン(1969)の前書きで高橋はヨハネ、ノストラダムス、ディクソンを三大予言者としている(p4)。
[17]えばRandi(1995)によれば、ケネディ暗殺を予言したとされる1956年5月11日付「パレード」誌での発言は、「1960年のアメリカ大統領選挙は民主党候補が勝利する。この人物は在任中暗殺されるか死亡するが、必ずしも最初の任期ではない」とある。これは「アメリカ大統領の呪い」について承知していれば発言できる内容である。 民主党勝利については、アメリカは二大政党制であるから二者択一になる。
[18]水(1997) p.154
[19]いて的中したものを探すなら、1980年に重大な問題が生じるという部分(ディクソン(1969)p.250)が、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻を指すと解釈できる程度である。

【参考】
ルース・モンゴメリイ(1966)『A Gift of Prophecy』(邦訳『水晶の中の未来』早川書房)
ジーン・ディクソン(1969)『My Life and Prophecies』(邦訳『アポカリプス666』自由国民社)
黒沼健(1974)『七人の予言者』新潮文庫
高橋良典 (1982) 『悪魔の黙示666』 学習研究社
James Randi(1995)『The Supernatural A-Z』Headline
Fortean Times No.243(2008)
Robert Damon Schneck「Amerika’s Psychic Jeane Dixon」

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